私とピアノ
昨日はSNSで声をかけてくれた方とモーニング。その方も大人になってからピアノを再開したという共通点があり、話の大半はピアノのことになった。
ピアノが縁でこんな出会いができたことに感謝しながら、ふと考えた。自分はいったい何のためにピアノを弾いているのだろう、と。
再開のきっかけは、先に再開していたバイオリンだった。なかなかの難曲を弾けたことで自信がつき、「もしかしたらピアノも、高校生のときに憧れた曲を弾けるようになるかもしれない」と思い、ショパンのバラード1番に取り組んだ。
そこからベートーヴェンのテンペストやショパンのバラード2番といった大曲やプーランク、セヴラック、ドビュッシーの小品を気の向くままに練習してきた。
大人になって再開した人ならわかると思うけれど、昔は到底無理だと思っていた曲が、時間をかければ少しずつ形になっていく。その過程には、子どもの頃とはまた違う喜びがある。
今の課題は、発表会やピティナ・ステップなど少し公の場で弾くと、緊張もあってテンポが速くなり、練習より出来が悪くなってしまうこと。今週末に控えた発表会でも同じことにならないかと、少し憂鬱でいた。
ただ今日、話しながら気づいたことがある。
私は「間違わないこと」「止まらないこと」に囚われすぎているのではないか、と。
あらためて考えてみる。
私にとってピアノとは何か。
弾きたいと思った曲を手に取り、最初は弾けなかった曲が、時間をかけることで少しずつ弾けるようになっていく。そのプロセスがとても好きだ。曲を弾くたびに、自分への手応えが少しずつ積み重なっていく感覚がある。
私の演奏を通じて誰かが「私もやってみようかな」と思ってくれたり、私の選んだ曲を「いい曲だな」と知るきっかけになってくれたら嬉しい。いいホールでいいピアノを弾きたいし、発表会のために服を選んだりヘアメイクをしてもらうのも好き。
でも、それは nice to have。
私にとっての本質は、曲が弾けるようになるまでのプロセスにある。
そう気づいたとき、すっと肩の力が抜けた。
今度の発表会で弾くのは、ショパンの「別れの曲」。中学生のとき、「101回目のプロポーズ」が流行って、楽譜を買った曲だ。中間部から急に難しくなり、いくら練習したも弾けるようにならなくて、諦めてしまった。
その曲を、49歳になった私が弾けるようになった。それだけで満たされるのだと気がついた。
もちろん、間違わず、止まらないに越したことはないのだけれど。