誰もがぶつかる「壁」の話。
角野隼人さんのインタビュー記事で、ショパンコンクールでファイナルに行けず、挫折を味わったという話を見かけた。
五年に一度しか開催されないそのコンクールに辿り着くには、前哨戦となるコンクールで結果を出すか、ビデオ審査を通過する必要がある。
2025年は642人が応募し、予備予選に通過できたのは171人。そこから約半数に絞られる一次予選を経て、二次、三次予選と進む。角野さんは、その三次予選を突破できず、ファイナルには進めなかった。
それを「挫折」と捉えるのか、と最初は思った。
角野さんは東大出身で、音楽大学を出たピアニストたちと比べれば、ピアノに捧げてきた時間は決して長くはない。そんな彼が三次予選まで残ったこと自体、当時リアルタイムで見ていた私は、大健闘だと感じていた。だから「挫折」という言葉が、最初はどうにも腑に落ちなかった。
けれど、よく考えてみると、みんな同じなのだと思う。
予備予選に出る壁があり、一次予選に進む壁があり、その先にも壁は続く。ファイナルに進めば入賞の壁があり、仮に優勝したとしても、その先でまた別の壁──たとえばコンサートの集客や評価──に直面するのかもしれない。
振り返れば、私自身もそうだ。
大学を卒業したばかりの頃は、フリーで働く心細さがあり、まずは正社員という肩書きを手に入れたいと願った。正社員になれば、次はもっと面白い仕事を、刺激のある環境を求めて外資系の会社に移った。かつての自分なら、きっと憧れただろうと思うような待遇で、今は働いている。それでもやっぱり、今の私は「もっと」という気持ちが消えない。
結局のところ、人はどこまで行っても、先の景色が見たくなる。そして、そこに足りていない自分を、どこか歯痒く思い続ける。
それを「贅沢だ」とか、「足るを知れ」と言ってしまうのは違う気がする。
三次予選まで進んだなら、ファイナルの景色を見たいと思うこと。
それは、人生において大事な欲望であり、前に進むための原動力だ。
ただし、いっけん壁の先にいるように見える他人を羨む時間は、やはりもったいない。
見えていないだけで、その人の前にも、きっと別の壁がある。
自分は自分の壁を越えるしかない。
そんなことを考えながらセネカを読んでいたら、
笑っちゃうほどねちっこく、「自分の人生を生きよ」と書いてあった。