花の終わったチューリップとそれからも続く人生の話
植物を育てることには、引越しのたびに興味が湧く。前の結婚で暮らした家でも、自分名義で買った初めてのマンションでも。が、残念ながら枯らしてしまうことが多く、そして子を産んでからはすっかりと諦めてしまっていた。
再び育ててみようという気になったのは、やはり引越しが契機だった。そしてふと申し込んだふるさと納税の鉢植え定期便で、段ボール一箱分の鉢植えが2カ月に1回届くようになり、すっかり趣味のひとつがガーデニングになって今にいたる。
今回は今までと少し勝手が違う。ネットやSNS、そしてAIまで頼れる。散りかけた花は早めに摘み、適度に剪定をする。それだけで花の持ちが大きく変わることを知り、実践している。また小学生の子どもがいることで自然に早起きになった。子どもが学校に出掛けてから仕事を始めるまでにコーヒーを飲みながら花の手入れをする習慣が気に入っている。というわけで、引越しして1年弱、いい感じでベランダガーデニングが続いている。
今日もちょうど陽が照らされるタイミングでベランダの植木たちの手入れをはじめ、咲き終わったチューリップを剪定したり、名前も知らずにただ育てていた葉牡丹の扱いを調べて切り戻しをし、旬の植物をビオトープのまわりに並べたりしていた。
そして花を落としたチューリップをベランダの端に移動した時、ふと人生みたいだな、なんてことを思った。
葉だけになったチューリップの鉢はもの悲しいといえなくもないけれど、しばらくの間ベランダの主役だったし、そしてうまく球根を太らせることができれば、来年もまたきっと見事な花が咲く。
そんな内容の小説を読んだことがあったなと思って思い出したのは、フィッツジェラルドの『リッチ・ボーイ』だった。あの主人公には輝かしい時とそうでない時がまるで打ち寄せる波のように繰り返し訪れる。ヴォルテールの『カンディード』もそうで、極端にいいことと悪いことが繰り返し訪れる話だった。
SNSを眺めていると、絶頂の話とどん底の話が、それぞれ極端なまでに切り取られて流れてくる。一見、それはまるで永遠に続くような印象を与えるけれど、実際にはそんな訳がなく、良かったり悪かったり、どちらでもなかったり、結局のところ人生にはその全部が含まれている。
私の今の人生のこの瞬間は、花の盛りなのか、蕾なのか、それとも散る間際なのか、実はよくわからない。
ただそれでも、やることはあまり変わらないのかもしれない。日々の手入れを怠らないこと——たぶん、それだけなんだろう。