関係の終焉は闇か光か/江國香織とフィッツジェラルドを読みながら考えた
最近江國香織のエッセイを立て続けに読んで好きだなあと感激し、今日は「号泣する準備はできていた」という小説を手に取った。
かなり冷房が聞いたカフェでページを開き、読み進めるうちに更に体が冷えた気がした。そこに書かれているのは崩壊した、しかかっている関係性についての短編の連なりで、どれも読後感が悪い。そして何より心当たりがあった。
恋愛感情の終わりにある、かつてたまらなく好きだった相手を不気味に感じる気まずさや哀しさ、自分にだけ未練がある相手との逢瀬etc.. かつて自分がそんな思いをし、そして誰かにそんな思いをさせてきた黒歴史。蓋をしていた感情をこじあけられた気持ちになった。
そして私は数ヶ月前に読んだフィッツジェラルドの「若者はみな悲しい」という短編集を思い浮かべて、あっちの方がいいなあと思った。「若者はみな悲しい」も喪失をテーマにした短編が並んでいて、特に「リッチボーイ/お坊ちゃん」という、恋愛以外は順風満帆な男の人生が描写されている一編が印象に残っている。思いを最後まで遂げられなかった女性の死を知って解放されたラストが衝撃的で、そして救われた。別れは痛みを伴うけれど、ただ解放でもある。悲しみばかりに目を向けていると、この解放に気づくことはできない。小説という形を通すことで伝わることがある。
こう振り返ると、私は黒い感情を黒いまま差し出される文学は苦手なのだな、と思う。関係の終わりには相手のことが肯定的に捉えられなくなっていく。ただそれでも今までの関係があったからこその情けがあるはずで、そこを伝えてほしいと思ってしまう。世界を肯定的に捉えるヒントを私は小説には求めているのだなと思う。小説、というか文学は、闇の先にある光を啓示してほしい。
一方で、江國香織が書く「闇」を受け取って、安堵する人たちの顔も浮かぶ。自分が抱える苦しみが描写されることによって、この思いを持つのが自分だけではないことを知る。それは抱えきれない荷物を自分ひとりだけでもっているわけではないと感じることで、重荷がふっと軽くなるんだろう。江國香織さんは江國香織さんでやはりすごい作家だなと思う。ただ小説は残念ながら、私向きではないのだけれど。
そんなことを考えながら夜は更けていく。