アラン「幸福論」/自分の背骨になる言葉
何かあった際に自分を支える、まるで背骨のような言葉がある。私にとってそれは、ある時は漫画「スラムダンク」の「諦めたらそこで試合終了だよ」という言葉。ある時はおそらく自分で紡いだ「未来のために今を犠牲にしない」という言葉。そして今回、アランという哲学者による「悲観主義は気分によるものであり、楽観主義は意志によるものである。」という言葉に触れ、これは私の新しい背骨になる言葉だと思った。
更にその言葉は「気分というのは、正確に言えば、いつも悪いものなのだ。だから、幸福とはすべて、意志と自己克服とによるものである。」と続いていく。2021年現在、今のように世の中が安定しない時に、喝になる言葉でもあった。
幸福について力強い言葉を残したアランことエミール=オーギュスト・シャルティエは1868年生まれのフランス人だ。フランスの地方都市ルーアンで高校の教師をしながら新聞紙にコラムの連載を持った。先に紹介した言葉はそのうちの「誓わねばならない」と題されたものの一部。アランのこの一連の幸福に関するコラムを纏めた本は、世界中で読み継がれ、今では世界三大幸福論のひとつ、と言われている。
この本を読みながら思い出したのは、私がいちばん人生に絶望したときのことだ。
大学を卒業してモノカキになりたいと新卒就職をせず、派遣の仕事でWEB教材の編集をした。書く時間を確保したいからと新卒就職をしなかったのに、忙しければ徹夜も辞さない、そんな働き方だった。書くこととの両立はおろか、体もきつくなり、半年ほど続けて退職。夢にも手が届かず保険のはずで始めた仕事が続かず、情けなくて、その晩未来がふがいなくて夜通し泣いた。
ところがひとしきり泣いて眠りについて翌朝目覚めたら、世界はずいぶんと希望に満ちていた。これから好きな未来を選ぶことができる、そう思った。始めたばかりの仕事を半年でやめ、大したスキルがない事実に変わりはないのに、ただ心持ちだけが天と地ほどの差があった。
私が「悲観主義は気分によるものであり、楽観主義は意志によるものである。」にとても共感するのはその経験があるからだ。もっともその時に切り替わったのは意志の力ではなく、たまたま、なのだけれど。
最近読んだ村上春樹の一連の作品は、いかに自死した恋人の死を乗り越えるかがテーマだった。乗り越える、という言葉は物理的に何かハードルがあるようで、実際は気の持ちようだ。
ただその「気」を持つのが難しい。村上春樹は主人公の「僕」にそれを乗り越えさせるために、「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」「羊をめぐる冒険」「ダンス・ダンス・ダンス」と実に4つの作品を書いた。
せっかちな私はたとえ精神的にひどいダメージを受けたとして、願わくばその鬱々とした期間を可及的速やかに終わらせたい。そしてコロナ禍のように憂鬱なことが現在進行中で起きている時ですら、ハッピーに毎日を過ごしたい。
新卒ではじめた仕事を半年で投げ出し絶望し、だけど翌朝には気分が切りかわったようなことを、きちんと意志をもって、どんな時も再現したい。そうやって人生をサバイブするためのヒントがこの本にあった。
1900年から1930年までに書かれたテキストをまとめた本なのに、全く言葉が古臭くなく、ひとつひとつのプロポ(断章)も新聞のコラムになってただけあってそれほど堅苦しくなくとても読みやすい。
全ての言説に同意はしなかったけれど、幸福になろうとする強い意志に共感した。それを読みながら、自分の中にもそれがむくむくと芽生えるのを感じた。そしてきっとずいぶんと幸福に近づいたのだった。
幸福になろうと欲しなければ、絶対幸福になれない。これは、何にもまして明白なことだと、ぼくは思う。したがって、自分の幸福を欲しなければならない。自分の幸福をつくり出さねばならない。
アラン「幸福論」