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2019/5/9 自己肯定感の低さに気づいた話

2019-05-09 / 日記 / 日記・エッセイ・コラム

ここ数日はネットで賛否両論の10歳Youtuberと200円で親の客人にコーヒーを売る少年について考えた。私は前者に否定的で後者に肯定的。さて何でだろうと。
で、気がついたのが、私は「才能」にめっぽう弱い。だから10歳Youtuberのクオリティが高かったら、彼を応援する側に守るし、客人として呼ばれた家でインスタントコーヒーを200円で売られたら憤る。
行為そのものの是が非にあまり興味はない。究極、たとえ人を深く傷つけたとして、それで生み出されるアウトプットが素晴らしければ必要悪、と思っている節がある。そういえばアラーキーへの#Metooが問題になった時も、私はそれでもアラーキーの写真が好きだ、そんな風に思っていたっけ。

何故自分はそんな風に思うのか。

そんな風に考えるようになったのはコルクラボに入って出会ったとある人の影響が大きい。今日はその人と話す機会があった。指摘されたのはもっと自己肯定感をあげた方がいい、ということで、私は自分では高いと思っていたからちょっとびっくり。ただ色々と喋っている中で、前述の話がリンクした。秀でていれば受け入れてもらえる、そうでなければ拒否される、と「まわりの評価」で存在価値を定義している、というのは確かにありそう。今はそこそこ「まわりの評価」を得られていることで、自分を肯定できているだけなのかもと。

そういえばコルクラボに初めて足を踏み入れた時、私は自分が何者でもない、ということにすごく居心地の悪さを感じた。第一期は有名な雑誌や映画、誰もが知るクリエイティブに関わっている人が多かった。だから相対的にみて、自分の価値が低い、そういう気持ちを抱いたんだろう。

じゃあこれからどうするか。

驚くことに「自己肯定感が低い」と気づいたのに、ああ私は自分の価値を「まわりの評価」にゆだねていることがあるんだなあという感想でしか今はない。「自己肯定感が低い」というモノサシで自分をみると、自分が見ないようにしていた一面が出てきたような、そんな感じ。

巷には自己肯定感をあげるには、という話が多く出ていて、恥ずかしながら私も何度か書いたことがある。ただ、今この瞬間、思っていることとは「低い」も「高い」も「状態」でしかないということ。そしてもしかしたらこれがありのままの自分を受け止める=自己肯定なのかも?ということ。

自分は他者から承認されていないと落ち着かないんだ、ということが今はしっくりきている。それはいいとか悪いとかではなくて、自分てそういうものなんだなあ、という感想。そして何とかしなきゃ、ではなく、そうなんだ、と思えたことで、なんだかすごく楽になった。

このことがもしかしたら誰かの役に立つかも、と思ったので備忘録も兼ねて。

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