映画「ノスタルジア」と「好きな人が好き」なもの
誰かのことを「好き」な延長で、その人が好きなものに興味を持ち、手に取ることがある。
最近だとそれは、荒木陽子さん。彼女を知ってからというもののいつも頭の片隅に彼女がいて、時間があれば彼女のエッセイを読み返し、言及されているものを手にとってみる。映画「ノスタルジア」はそんな荒木陽子さんがとても影響を受けた映画。
この映画はロシアの著名な映画監督、アンドレイ・タルコフスキーの1983年の作品で、公開された直後から世界中で絶賛された。
どのカットも絵画のような絶妙な美しさで見とれてしまう。時折織り込まれる幼少期の記憶の断片の映像はまさに「ノスタルジー」で自分の過去と重ね合わせ胸にぐっと来る。そして最後、とある男の焼身自殺のシーンがあり、更にその男との約束を守るために、主人公は一見おかしな行いに力を注ぎ、試みを成功させた後に絶命する。
観終えた時、茫然とした。だからこそ、荒木陽子さんと、彼女の夫の写真家アラーキーが、この映画を観た後のことを写真集にしたほどの興奮が分かる気がしたし、私も「好き」と思った。
・・・冷静に考えると、その「好き」の内訳は「ノスタルジア」ではなく、荒木陽子さんへの「好き」の変型のように思う。荒木陽子さんがこの映画を観て影響を受けた、という事実を知らなかったら、どうだったんだろう?と考えると、その「好き」には途端に自信がなくなる。
「好きな人が好き」で手にとって、自分も好きと思ったもの。それを果たして「好き」とよんでいいものか。
たとえばリチャード•ブローティガン。この作家の作品を去年夢中になって読んだのだけど、好きな作家、江國香織がブローティガンのことを好きじゃなかったら、更に村上春樹もブローティガンを愛読している、という事実を知らなかったら、私はブローティガンを読んでどう思ったんだろう?
一方、リアルな人間関係の場合は、身近な人の「好き」にピンとこないのが問題だ。「あのお店は美味しい」「この本は面白かった」そんな会話をキッカケに手にとって、ただ自分にとってはそれがイマイチだった時。
思ってもいない「よかった」を伝えると、それは嘘でしかないから息苦しい。とはいえ「何も言わない」には居心地の悪さが付き纏い、かといって「イマイチ」を伝えるのは最高に野暮で、だから違和感が積み重なると、私は最後、いつもそっと距離を置く。
そんな私は、いまTwitter上でのゆるい人間関係をとても気に入っている。誰かの「好き」にピンと来なかったらスルーするのがとても自然で、そして誰かの「好き」に反応するのもとても自然で。すると「好き」が似ている同士がどんどん引き寄せられて親しくなっていく、これこそ何のストレスもない、私にとっての人間関係の理想形。
最近好きなレストランから手にとる本、観る映画までよく重なる方と出会って、その方の「好き」はぜひもっと知りたいなあと思うし、彼女の「好き」の中に私が少々好きじゃないものがあったとして、それは口にしてもしなくてもちっとも苦しくなく、きっと後ろめたさもない。
つらつら思いを巡らすと、「好きな人」とは「好き」が重なる人でもあって、そんな「好き」な人の「好き」を追い求めるのはとても自然なことだと気づく。その「好き」は時に、自分が心から「好き」なものとは少し違う。ただそれもまた、別のもうひとつの「好き」の形。
「好き」が多い人は幸せだ。
これは私の人生の、仮説なのだけど。